著 者:木本奏太 かなたいむ。
出版社:株式会社 KADOKAWA
発売日:2022年3月 207P
本の目次
はじめに
第1章 「男として生きたい」と母にカミングアウト ー女から男に変わることに必死だった
第2章 性転換する前とした後で ー手術した後も自分は自分だった
第3章 「男」「女」カテゴライズされることの違和感 ーそれぞれ「一人の人間」
第4章 話すことと自分らしく生きる幸せ ー男として駆け抜けた20代
おわりに
本書との出会い
本が発売される半年以上前の2021年、私は我が子のロールモデルを探していました。
私の長子は、著者のかなたさんと同じ性同一性障害です。
今から5年以上も前に本人からカミングアウトを受けましたが、特別に大きな変化も問題もなく時間が過ぎていきました。
しかし、長子が思春期真っ盛りになったここ数年、少しずつ状況が変化してきました。
本人や周りの子供たちも思春期を迎えたことで、本人の性別に対する苦しみが深くなったようでした。
今まで学校を休んだことのない子だったのに、「休みたい」と口にするようになったのです。
学校でいじめられている?
お友達と何かあったのかな?
先生に怒られたのかな?
理由を求め、本人と何度も話し合いましたが、結局はわかりませんでした。
学校にも相談しましたが、
彼女のまわりの人間関係は常に良好ですよ。
いつも明るく楽しそうです。学校としては「家で何かあったのか」と心配していたのですが・・・
とのことでした。
もともとがあまり心の中をペラペラと口にする子ではなく、どうしたらいいかわからずに困っていました。
今となって思えば、実は本人との話し合いの中で理由はちゃんと出ていたんです。
女子トイレを使うのが苦痛。
着替えの時間が苦痛。
男女別の表記や呼称で自分が女子に分類されるのがその都度辛い。
ちゃんと伝えてくれたのに、私にはピンと来ず「それよりも他に理由があるんじゃないの?」と勘繰ってしまったわけです。
それに気づかず、なすすべもないままに本人が頑張る形で、なんとか励ましたりなだめたり叱ったりしながら、なんとか学校に通わせる日々が続きました。
朝になると死んだような顔をしてじっと耐えている姿をみるたびに、私も辛くなりました。
親って無力です。
「自分の将来への不安が大きいのかもしれない」
「自分と同じような人がどう大人になっていったのか知ることができたら、何かきっかけをつかめるかもしれない」
そう考えました。
そんな時、YouTubeでみつけたのがかなたさんです。
かなたさんを見つけて、すごく嬉しかったのを覚えています。
イケメンで、弾ける笑顔。
その笑顔に、将来の我が子の笑顔を見た気がしました。
かなたさんって、とっても素敵な方です。くどいですが、イケメン!!
かなたさんも思春期に女子としての生活に辛さを抱えながら、悩み、決断し、25歳で性別適合手術を受けられています。
きっと、この方の言葉やストーリーに我が子が救われることがあるんじゃないか。
私もヒントをもらえるんじゃないか、そう思いました。
YouTubeで本の告知をみてすぐに、ネットで予約をしました。
母親へのカミングアウト
第一章でまずはじめに触れられたのが「母親へのカミングアウト」。
お互いに大切で近い存在だからこそ、カミングアウトをしたいと思う気持ち。
大事な存在だからこそ「受け入れられなかったら、否定されたらどうしよう」という不安。
けれど、ある日、意を決して母へカミングアウトしました。
22歳の僕が前に進むには、もう嘘をつかずに生きていくためには、カミングアウトするしかなかった。
決意してからも、なかなか言い出せなくて、その日の晩ごはんは味がしなかったな・。
本文より
そして、かなたさんはついにお母さんにカミングアウトします。
かなたさんのご両親は耳が不自由なので、普段の会話は手話が中心です。
しかし、上手く手話で伝えられる自信がなく手紙を渡したそうです。
お母さんは性同一性障害というのを知っていますか?
身体は女性、心は男性というものです。
自分は性同一性障害です。
これから男性として生きていきたい。
なので、就職はせず、フリーターとして働き
お金を貯めて手術をするつもりです。
手紙を読むにつれて、普段から明るく太陽みたいな母の顔から少しずつ笑顔が消えていくのが分かりました。
僕は暑くもないのに、すごく汗をかいていました。
本文より
読み終えたお母さんは、一言「嘘やろ、冗談やろ」と。
その後、「こういう人たちがいるのは知ってる、けど、自分の子どもがそうだなんて思えない・・・とりあえずわかった」
とおっしゃったそうです。
かなたさんはお母さんの反応をみて「思ったほど拒否されてはいない」と思い込み、言えなかったことをやっと言えた解放感もあいまって「お母さんはわかってくれた!」と舞い上がったそうです。
けど、それがとんだ勘違いだったのを、後から知ることになります。
本文より
かなたさんのお母さんは、かなたさんのYouTubeチャンネルにも一緒にでていらっしゃいます。本当に明るく、元気でパワフルな方だと思います。
ただ、著者のかなたさんに一言。
一気にいろいろカミングアウトしすぎです
この短い手紙の中に、「性同一性障害です」「男性として生きていきたい」「就職はしない」「フリーターになる」「手術する」この手紙の中に重大発表が5つももりこまれているんです。
わが子からのカミングアウトに「へぇーそうなんだね」と呑気に返事した私ですら、こんな手紙をもらったら撃沈してしまうかもしれません。
カミングアウトの後、お母さんは何事もなかったのかのように振る舞い、かなたさんはその態度に苛立つようになっていきます。
以前と変わらず、「娘が」と紹介する母に「カミングアウトしたのになぜわかってくれないんだ?」と思ったそうです。
お母さんも、相当に悩まれていたと思います。
どうしていいか単純にわからなかったのだと想像します。
その後、かなたさんはお母さんと言い合いになったことをきっかけに仲直りをし、
「自分がどうしてほしいのか」をきちんと説明したそうです。
「娘と言わないでほしい」「お姉ちゃんと呼ばないでほしい」など、具体的にひとつひとつ伝えていったそうです。
これ、本当に大事です。
親だって、別人格のひとりの人間です。
我が子の気持ちが、親だからといって無条件に理解できるわけではありません。
理解したいけれど、できないこともあります。
伝えてくれてもわからないこともあるのですから、そもそも言ってくれないと何もわかりません。
性転換後の話
手術をして、戸籍を変えて、自分が生きたい性で堂々と生きられること、見られたい性で見てもらえていること。本当に生きやすくなりました。けど、ここで気づいたことがありました。
「男になることが目標になりすぎていた」ということです。
ー中略ー
その目標に向かってがむしゃらにバイトして、お金を貯めて、突っ走ってきました。
映画だったら、ここが一番のクライマックス。ハッピーエンド。
スクリーンは暗転して物語は終わり。
だけど、僕はそうじゃない。人生はまだまだ続いていく。僕は25歳で戸籍を変えて、男性になりました。
ー中略ー
性転換して得た一番大きなもの。それは性別を変えても、「自分は自分だった」と気づいたことです。
本文より
かなたさんは男性になってから少しの間、「どうしたらいいかわからなくなっていた」といいます。
それまで待ち望んでいた自分の夢を叶えることができたのに、です。
性転換するまでは「男性になる」ことへ、夢をみすぎていました。
男性になったら、何もしなくとも未来が開けていくような気持ちでした。
だけど、そこからどうやってい生きていくのかは、結局「男性だから」「女性だから」ではなく、自分が「どう生きていきたいか」なんですよね。
男性に変わってはじめて、その「自分がどう生きていきたいのか」の一部に「男性として生きる」が入っていたにすぎないと気づきました。
本文より
かなたさんはその後、ある出来事をきっかけに「自分がどう生きていきたいか」を必死に考え始めます。
そして行き着いた夢は、「映像を通して、誰かの何かのきっかけになりたい」という高校生から夢中になっていた生き方でした。
それはまさに、「女の子だったときと同じ」。
結局、自分は自分だった、男であろうが女であろうが自分は自分であった、と気付くのです。
私はこの章を、多くの将来に悩む中高生に読んでほしいと思いました。
何かを成し遂げようとする時、あまりにもその目標が大きくなりすぎて、まるでそれが「人生のゴール」のように思えてしまうことがあります。
これは大人になってもよくありがちな話です。
しかし、人生の目的は生きていく限り続いていくものです。
達成することがゴール!となってしまうと、挫折した時に立ち直ることが困難になります。
クリアできたと同時に目的を見失ってしまいます。
人生の目的は、命ある限り続けられることにしかありません。
だから、もし何かに失敗しても人生が終わったように感じないでほしい。
そして何かを成し遂げようと一生懸命になる時、それはそれでとっても素敵なことだけれど、成し遂げた先にどうしたいのか、をなんとなくでも想像してほしいと思います。
それが全くできていない場合、成し遂げた先に「無」になって呆然とするパターンが多いのです。
カモフラージュ大作戦
筆者のかなたさんが高校2年生の時、『ラスト・フレンズ』というテレビドラマがきっかけで初めて”性同一障害”という言葉を知ったそうです。
自分が悩み苦しんでいたことを全て一致して持つ登場人物をみて、自分の「違和感」に名前がつき、同時に将来に絶望したそうです。
そしてさらに、大人気の俳優さん・女優さんが出演していることもあってまわりの友人がほとんどみていたそのドラマ。
ある日、こんなことが起こります。
ある日、学食でご飯を食べている時、友達に言われました。
「きもっちゃん(当時の筆者のあだな)って、あの瑠可(ドラマにでてくる性同一性障害の役名)と一緒じゃないよな?」「性同一性障害?じゃないよな・・・?」
「そうだったら怖い・・・気持ち悪い」といったニュアンスで聞かれました。
その場には何人もの友達もいるし、学食で人も多いから誰が聞いているかわからないし。
僕は性同一性障害だと自分で気づいているにもかかわらず、
「そんなわけないやん、やめてや!」
と否定しました。自分で自分を否定したような気持ちになり、とても胸が苦しくなりました。と同時にとても焦りました。
本文より
このままだと周りに気付かれ嫌われてしまうのではないか、そう考えたかなたさんは、自分の気持ちも含め「他人と違うことはすべて隠さなきゃいけない」と思い「カモフラージュ大作戦」を始めます。
大作戦!
なんていうとなんだか楽しそう!!と思ってしまいました。
しかし、そんな明るそうな作戦名とは裏腹に、かなたさんにとって「この時期が一番辛かったかもしれない」と言わせるほど、辛く苦しい時間の幕開けでした。
かなたさんのカモフラージュ大作戦
- 髪の毛を伸ばす
- 化粧をする
- 服装を変える
- 男子に告白する(相手に失礼だとわかりつつ、男の子に告白をしないと「人と違う」と判断されて、学校で居場所がなくなる=生きていけないというくらい追い詰められていたそうです。)
4の作戦、元女子、現オバちゃんの私も少しだけわかります。
女子って、本当に恋バナ大好きなんです。
おばちゃんになるとそうでもないと思いますが、小学校高学年から大学生にかけての女子は恋バナ命。
恋バナなくして逆に何の話を友達とするの?って言うくらいみんなで恋バナをしていました。
だからこそ、恋バナに参加できないのは女子社会を生きていく中ではありえないことでした。
「好きな人」がいないと、友達が「〇〇君は?▲▲君もいいよね~、早く好きな人つくってよ!」といってくる始末。
なんなんでしょうかね、あの雰囲気は。
私も「好きな人はいない」と言えなかったひとりです。
女子の仲間に入るために、「好き」じゃなくても、「いい人だな」って思える人を「好きな人に設定」して友達と盛り上がってた時期もありました。
おせっかいな誰かが「エガシタってあんたのこと好きらしいよ」なんて勝手に伝えて、知らないうちに振られるならいいのですが、困るのは相手がまんざらでもない時。
伝言で「あいつもお前のことが好きだってよ」と言われたときのパニック。
どうしたらいい?(知らんがな、身から出たサビ)
私が好きって言ったのは事実だけど、好きって言われるのは困る。
今思うと最低ですが、貝のようにしばらくはだんまりを決め込み、周りがその話題を忘れ去ることをひたすら祈っていました。
話がそれましたが、”周りの人と同じにならなきゃ”と必死だったかなたさんは、そんな「好きな人がいる」というのが免罪符の女子の世界で自分を塗り固めてじっと生きていたのです。
この章は中高生にはもちろん、LGBTQの子をもつ親にも読んでほしいと思います。
私の子もいろいろな話をしてはくれます。
でも、こんなに赤裸々に細かく具体的な話はしてくれません。
やはりそこは親子だからこそ、話せない部分もあるのかもしれません。
その子の性格にもよると思います。
うちの子は明るくおしゃべりするのも好きですが、話の内容は楽しいバカっぱなしばかり。
重い話や、自分の内面をつらつらと話すことはほとんどありません。
本人から細かい情報が得られないので想像するしかありませんが、そもそも私はFTMではないので細かい想像なんてできないのです。
これこれこういうときに、こういうことをして、あるいは自分がこういう行動をして、こんなことが起きて、自分はこう思い、これが辛かった、という説明がある本書を読み、具体的に「我が子が辛いのはこういう時なのかな?」と想像することができました。
僕はLGBTQ当事者だけど、ほかの当事者の気持ちを代弁はできない
僕はLGBTQ当事者だけど、ほかのLGBTQ当事者の人の気持ちを代弁できないと思うんですよね。
両親も違う、友達も違う、歩んできた道も、考え方も違う。
考え方はみんなそれぞれで、「セクシャリティ」という共通点がたまたまあっただけ。
本文より
これ、奥が深い文章だなって思います。
世の中は「カテゴリー」で溢れています。
それは世の中をわかりやすくするために必要なことでもあります。
カテゴライズされていない世界が明日訪れたら、世界は大パニックになります。
例えば、ある300人の生徒がいる学校。
1学年から3学年で各100人ずつ、25人ずつの各学年4クラスずつ。計12クラスあったとします。
このクラス分けもカテゴライズされたものです。
年齢・性別でわりふられた、このカテゴライズがなくなるだけで、学校は授業そのものが困難になります。
学年分けもクラス分けもない、『じゃぁ、学校についた順に席に座ってらいましょうか。』
12クラス全員が着席したところで、授業を始めます。
教科書を開くと、同じクラスに1年生の勉強をしている子もいれば3年生の勉強をしている子もいることになります。
先生はそれこそ、それぞれに合った授業を個別に行わなければならなくなるわけです。
次の日も、学校についた順から教室に座ってもらったらどうなるでしょうか。
昨日とは違う先生に違う席順。
先生も違う生徒の顔ぶれに、それぞれがどこまで勉強が進んでいる生徒なのかまったくわかりません。
カテゴライズって、集団生活をする上ではどうしても欠かせないポイントなんです。
ただ、あまりにも便利で自然なほど当たり前に行われているため、私たちの脳みそは「カテゴライズ」されたものは「同じものである」とみえがちです。
ひとつひとつのカテゴライズはかなたさんのいうように、たったひとつの共通点でしかない。
出身学校が一緒。同じ出身地。同じ髪型。共通の友人がいる。
その共通点で共感できることはあっても、全てをわかりあうなんてもちろん無理です。
LGBTQでくくられると、わからない人から見たら全てを理解しあっている集団にみえてしまうんです。
わからないからこそ、なんですけどね。
さっきあげたような、ひとつひとつの共通点の中にLGBTQがあるだけ。
LGBTQであることはその人を全て説明する言葉ではなく、その人を形成するただのひとつの要素です。
日本から来ました。東京出身です。明太子が好きです。GLAYが好きです。LGBTQです。そんなならび。
兄になった姉
筆者のかなたさんには、9歳下の弟さんがいます。
かなたさんは、性転換するときめた22歳の時も、実行に移した25歳の時も弟さんには何も伝えませんでした。
最初は、「まだわからないだろうな、混乱させてしまうだろうな」と思ったからだそうです。
そして、手術を実行に移した25歳の時、弟さんは16歳。
そのときは「話さなかった」のではなく、「話せなかった」そうです。
弟に話せなかったのは、両親に対してもそうですが、弟にも嫌われたくなかった。
カミングアウトすることで、弟の人生に”僕”を背負わせてしまうんじゃないか。
生きづらくなってしまうんじゃないか。
どう思われるかが怖かったんです。
要するに、僕は弟と向きあうことから逃げていたんです。だって、そっちの方が楽だし、簡単だから。
本文より
弟さんはかなたさんのYouTube動画で、「姉」が「兄」になっていたことを知ったそうです。
弟さんはかなたさんに
友達に「姉が兄に変わったんだって?」と言われて、ちょっと気まずい思いをしたこと。
僕から話を聞いていないからこそ、モヤモヤしてたこと。友達に言われる前にカミングアウトしてほしかったこと。
を話してくれたそうです。
きょうだいって不思議な存在です。
同じ親を持ち、多くの場合は年齢も近い。
親は先に死んでしまいます。
きょうだいは、人生の時間を親よりも共に支え合う最初の家族です。
親へのカミングアウトも大きな一歩ですが、きょうだいへのカミングアウトも悩む方が多いのかもしれません。
特に、弟や妹がいる場合、
「自分が弟や妹を守るんだ」って知らず知らずのうちに思っているお兄ちゃんやお姉ちゃんが多いのだと思います。
親としては嬉しく、そしてちょっと切ないです。
我が家の子供たちも、かなたさんたちきょうだいと同じ、姉と弟として生活してきました。
共働きで不在がちな私たち親よりも、お互いがお互いにとって一番長く過ごしてきた存在になっています。
1年ほどまえに、長子自身から弟に「自分は男だと思っている」ことを伝えたそうです。
弟は「へぇーそうなんだ」「なんかよくわからないけど応援するよ」と言ってくれたそうです。
そのお気楽な返事が「涙がでるほど嬉しかった」と言って、長子は静かに涙を流していました。
今も、「自分がこうしたい」ということがある時「でもそのせいで弟が何か言われたら」とすごく心配をしているようです。
そんなふうに思っている人がいたら伝えたいです。
もしそのせいで何か言われて傷つくことがあっても、私たち家族はあなたを嫌いになったりしません。
傷つくことがあっても、お互いがいれば大丈夫。
だから、安心して前を向いてほしいです。
自分の性別について考えてみた
この本を読んで、自分の性別について考えてみました。
私自身は性別でカテゴライズされれば、女性。
女性の身体的特徴を持って生まれ、男性をパートナーとしています。
でも、脳みその作りがかなり周囲の女性とは違う自覚があります。
かといって周囲の男性と近いかといえば、そうでもありません。
自分のことを「女性」といわれて、違和感は感じません。
化粧したり着飾るのも好きですが、かといってそこまでこだわりはありません。
髪をアレンジして楽しむのも好きですが、必要があれば今すぐ坊主になっても構いません。
今日の夢に神様が現れて、「明日から君、男ね」と言われて目覚めたら男性の体になっていたら・・・
たぶん「そっかー」と受け入れて男性として生きると思います。
家族の反応は心配ですが「神様がそういうのならまぁしゃーないか」と、あっさり私はマインドを切り替えてしまいそうです。
そういう意味でいうと、私は女性というかそんなに性別にこだわりや自覚がない無性別の心を持っているのかもしれません。
女で生まれたから女として生きている、ただそれだけのこと。
何が言いたいのかと言うと、世の中にはそれこそいろいろな性自認を持った人がいるということ。
私のように、たまたま女に生まれたから女として生きている人。
同じように、たまたま男に生まれたから男として生きている人。
自分の性別をはっきりと明確に自覚しているのに、違う性別の身体で生まれた人。
自分の性別には違和感はないが、恋愛対象が同性である人。
そもそも自分の性別や恋愛対象を定めていない人。
それは、自分を形成するひとつの因子でしかありませんが、
「自分はどんな人間なんだろう?」と考えることはあっても、
「自分の性別って何なんだろう?」と考える人は、少ないのではないでしょうか。
今まで自分の性別に違和感を感じたことのない人も、一度考えてみてはいかかでしょうか。
意外な自分に気づくかもしれません。
それは怖いことではなく、新しい自分に出会えるチャンスです。
LGBTQという言葉がなくなるとき、本当の意味で私たちはこのカテゴリーから解放されるような気がします。