こんにちは。エガシタです。
ある日突然「自分はLGBTQだ」と我が子からカミングアウトされたら、あなたはどう思いますか?
私は5年以上前のある日、我が子(娘として生まれた)に
私が自分のことを男の子だと思っているって言ったら、ママはどう思う?
と聞かれました。
我が子にカミングアウトされて困惑する方や、親にカミングアウトしたいけどなかかなできないと悩む方に読んでもらえたら嬉しいです。
親も人間。感じ方も受け入れ方も十人十色です。
我が子に「どう思う?」と聞かれた時の私の反応
「私が自分のことを男の子だと思っているって言ったら、ママはどう思う?」
5年以上前のある日、まだ小学生だった我が子にこう聞かれました。
私は「別に何も」と答えたと記憶しています。今もその答えに変化はありません。
心の性別が男でも女でも無性別でも、私にとっては我が子以外の何者でもありません。
『LGBTQなんだ』というカミングアウトは、「今日の天気は晴れだったよ」と同じ本質の(といっては我が子に怒られてしまうかもしれませんが)の事実の報告のようなものでした。
もし明日、「今日からはやっぱり女として生きる」と言われたとしても答えは同じです。
そうか、これからはそうなんだね。
そう答えて、そのままいつもと同じ1日が過ぎていくと思います。
どんな性別を選ぼうが、どんな見た目になろうが、どう生きようが、私にとってあの子は私の子どもであることに何の変わりもありません。
だから、「どう思う?」と言われた時の第一声(実際はメールでのカミングアウトだったので返信ですが)は「別に何も」でした。
カミングアウトは、小学校高学年の時でした。我が家は共働きの核家族、子供たちがまだ小さかった当時、学校の長期休みは私の実家に預けていました。
持たせていた本人のキッズ携帯からの突然のメール。何時間かやりとりをしたように記憶しています。
そのメールのやりとりの中で我が子からは
・自分は自分のことを男の子だと思っている
・ごめんなさい
・ママが大好き
・話をきいてくれてありがとう
という内容が送られてきました。
私からは
・別に何も変わらない
・あなたが大好き
・伝えてくれてありがとう
という内容の返信をしました。
メールの文面からかなり悩んだ末に伝えてくれたことが感じられて、途中から胸に込み上げるものがあったことを覚えています。
特に、「ごめんなさい」は切なかったです。
きっと、勇気をだしてやっとの思いで伝えてくれたんだと思います。こんな、呑気な反応でごめんね。
でも、ママにとってはあなたが男で生きようと女で生きようが、極論どっちでもいい。
女で生まれてきた、これが事実。男として生きていきたい、これも事実。ただの二つの事実。
朝起きたら、「今日は晴れだった」それと同じ性質の事実。感想や感情は生まれますが、事実に対して「受け入れられない」とは感じませんでした。
ただ、心配はたくさんでてきます。
LGBTQであろうがなかろうが、子供のことは心配で仕方ないのが親の常。
それに加えて、LGBTQであるからこその特有の心配や不安も出てきます。
そもそも、本人が何が辛いのかもわからないことが多い。
具体的に本人がどうしていきたいのかも、当時はわかりませんでしたし、それについてはあえて触れませんでした。
当時は小学生だったこともあり、今の段階でそこまで突き詰めて考えても仕方がないかな、と。
我が子に予感のようなものは感じなかった
私が鈍感なのかもしれませんが、我が子がFTM(心の性別は男性、女性として生まれ女性から男性へ性別移行を望む人)である、もしくはそうかもしれないと感じたことはありませんでした。(そもそも、LGBTQとかFTMという言葉を知りませんでした)
小学生の中学年くらいから、スカートを履くことを拒絶するようになったと思います。
同じ時期から服の色は黒や紺を好むようになり、リボンやヒラヒラした服は着なくなりました。
小さい頃からいろいろなことに対して自分のこだわりが強い子なので、”マイルールがひとつ増えたのかな?”くらいに思っていました。
ママ友同士の会話の中で、我が子に彼氏がいるなんて話を聞いたこともあり、
「今時の小学生はどうなっちゃってるんだ?彼氏ってなんだそれ!!」なんて卒倒しそうになったこともありました。
特別に予感とか、「もしかしてうちの子って、、、?」と思うようなことはなかったです。
なんでそんなにスカートを嫌うかなぁ、、、リボン可愛いのになぁ、、、似合うのになぁ、、、(着てくれなくて)残念だなぁ、、、
袖をほとんど通していない、着られなくなったワンピースを新品同然でお下がりで回す時に、そんな気持ちになる程度でした。
カミングアウトを受けて親の私が心配になった4つのこと
子どもにそんな重大発表をされて、「別に何も」って「バカなの?何も感じないってこと?」と言われてしまうかもしれません。
カミングアウトの内容自体に「別に何も異論はない」だけであって、「何も感じない」わけではありません。不安や心配ばかりです。
①これからの子どもの人生
人はみな、誰もが大変な思いをして生きています。ただ、それが私の想像と理解を超える場所に及んでしまう不安です。
例えば私と同じように、女として母として生きるのであれば、共感できることや理解してあげられることが少しでも多いはずです。
男として生きようが、女として生きようが、どんな道にも乗り越えなければならない壁はあります。
それが、FTMの人には他の多くの人とは違った壁があるのかもしれません。
他の多くの人には壁とも感じない壁が、壁になって立ちはだかることがあの子の人生には多いかもしれません。わからないこと自体が不安です。
②体への負担
カミングアウトから何年か経ってからの話になりますが、我が子と将来についての話を具体的に話したことがあります。
これからの人生を、どう生きていきたいのか。我が子の将来の自分像は、「身体も男性として生きる姿」です。
親として、これには正直「大賛成」というわけにはいきません。
もちろん、気持ちの面で複雑な点もあります。本当は女子会もしたかったし、成人式に振袖も着せたかったし、ウェディングドレス姿も見られるものなら見たかったです。
娘を授かった時から抱いていた親としての勝手な妄想がもう叶えられなくなったこと、とても切なく感じます。
ただ、気持ちの面での複雑さは私自身のことなので、自分で向き合っていきます。
1番は、体への負担の心配です。
まだ始めてもいない治療の心配をしても仕方ないですが、ホルモン治療や外科的手術は今から心配で仕方ありません。
治療や手術で外見も男性になることが、本人の人生にどうしても必要な要素であるというなら止めはしません。
それをすることで本人が幸せだと感じるのであれば、全力で応援します。ですが、ただひたすら心配です。
特に、外科手術は一度やってしまうと後戻りはできません。
人生、何が起きるかわかりません。
もし将来好きになった人が、実は男性の体を持っていたら?そんなことまで考えてしまいます。
③その性自認が、一時的なものである可能性は?
カミングアウトが小学校の高学年だったこともあり、この心配もありました。
私自身も小学生の時に「男に産まれたらよかったのに」と思っていた時期があります。
単純に女の子同士の世界が苦手で、男の子と一緒にいるのが気楽だったからなのですが、当時は本気で「男の子になりたい」と思っていました。
そんなこともあり、”もしかしたら我が子の気持ちも一時的なものかもしれない”という考えもありました。
カミングアウト当時は本人がまだ小学生だったこともあり、
ママはどっちでもいいし、今はどっちかに決めなきゃいけないわけでもないんじゃない?
という考えを伝えました。ただ、本人は確固たる自信があって「自分は男の子なんだ」と言っていました。
「そうなんだね、わかったよ」と本人に話しつつ、私の心の中では「まぁ、どっちに転んでもいいようにすればいいか」と思っていました。
④主人の反応
夫婦であっても別人。そして夫婦であるからこそ、主人の反応は予想がつきました。
子どもを授かる前から「男の子でも女の子でもどっちでもいい」という考えだった私に対し、「絶対に女の子がいい」と言っていた主人。
もちろん、カミングアウトのことを知っても我が子への愛情は変わらないでしょうし、必ず受け入れてくれると信じていました。
ですが、それにはかなりの時間がかかるでしょうし、受け入れた後は私以上に複雑な気持ちをずっと抱えていくことになるでしょう。
そんな主人の気持ちを考えると、胸がつまりました。
メールでのカミングアウトから数ヶ月が経った頃、子どもに確認をとった上で私から主人に話をしたと思います。でも、当初の反応は「聞きたくない」。何度か持ちかけても「その話はしたくない」でした。
そんなタイミングだったと思います。ある日、家族でデパートに行った時のことでした。(本人の)弟の帽子がキツくなってきたので、新しい帽子を選んでいました。
主人が「ついでにお前の帽子も新しく買おうか、気に入ったのを持っておいで」と本人に声をかけたのです。
我が子は嬉しそうに帽子を選び出したのですが、それが弟と同じ男の子用の帽子の棚。
主人にとって、まだ受け入れらない現実を急に突きつけられたように感じたのだと思います。
「お前はあっちだろ」
と女の子用の棚を指差し、我が子は「それならいらない」と泣き出してしまいました。
結局、帽子は買わずに帰りました。
我が子にはかわいそうな思いをさせてしまったと思いますが、今思えばそうやって主人と我が子が一緒に乗り越えてきた壁の一つだと思っています。
それから5年以上の月日が流れ、今も主人は「完全には理解できない、受け止めきれてはいない」と言います。
でも、我が子が男性用のスーツを着ることを止めはしません。内心は複雑な気持ちもあるかもしれませんが、男性用の服を着た我が子と一緒に写真もとります。そして、我が子を心から大事に思っています。
それだけで、充分です。
帽子の件の後、我が子には
パパには時間が必要。
女だろうが男だろうが、あなたは私たちの大切な子どもであることは絶対にかわらないけれど、娘で産まれきたことで「こんなことをしてあげたい」という親の思いがあった。
きっと、ママよりもパパの方がその気持ちが強いの。パパやママに気を遣って自分の生き方を曲げる必要はないけれど、これも親の正直な気持ちだよ。いいとか、悪いじゃなくて、感じるものだから。
と話しました。
いいとか悪いとかではなくてただこう感じるだけ
カミングアウトできない悩みをよく耳にします。
また、我が子と一緒にLGBTの会合やカウンセリングに出席したりすると「親に理解されなかった苦しみ」「親に言えなかった辛さ」を多くの方が口にし、その上で我が子がかなり早い年齢で私にカミングアウトしたことに驚かれます。
時には「理解のあるお母さんだからこそカミングアウトできたんですね」と私自身について褒めていただくこともあります。
それくらい、親へのカミングアウトに対して迷い悩み、結果に不安を感じたり苦しむことが多いのだと思います。
ただ、私は別に母親として特別優れているわけでもなんでもありません。むしろ親として全然なってないな、と落ち込むことも多いです。
他の保護者の方の話を聞いて、”あーこんなお母さんいいなぁ”と、我が子に申し訳なく思ったことも一度や二度ではありません。
そんな親として及第点の私を母に持ったからこそ、我が子は気構えずに私に言えたのかもしれません。
カミングアウトしたくでもできない、もしくはしたけれども理解されない苦しみは相当に辛いことだと想像します。
でも、それはきっと誰も悪くありません。
もちろん、カミングアウトできて・してもらって、理解されて・理解できた方が、子も親も幸せに違いありません。
でも、たとえ理解されない・理解できないとしてもそれは現時点のただ一点での状況の話です。
いつまでも同じ状況が続くと決まったわけではありません。時間が解決することも多いです。子どもを愛する気持ちがなければ、理解できない苦しみは生まれません。苦しむということは、子どもが愛おしいからに他なりません。
子どもに求めるのは酷かもしれませんが、親もひとりの人間です。それぞれに考え方も感じ方も違います。親の理解を求めつつ、理解できない親の気持ちも少しだけでいいので受け止めてほしいと思います。
愛さえあれば大丈夫!!
なんて言いますが、本当にその通りです。
正直に言います。私は我が子が『LGBTQであること』に拒絶感や嫌悪感は全く感じませんが、『LGBTQである辛さ』は理解できません。
我が子と同じFTMの方から『女子トイレに入る辛さ』や『毎月生理がくるたびに”女であること”をつきつけられるような気持ちになって辛かった』と聞きました。
ピンときません。
いいですか?お母さん、想像してみてください。お母さんが、”明日から男子トイレしか使えない”って言われたらどうですか?それくらい辛いことなんです。
私がおばさんになったからでしょうか。そこまで辛く感じません。結局、我が子がどれだけ辛いのかなんて想像がつきません。あの子の辛さなんて、これっぽっちも理解できていないのだと思います。
だからこそ、子どもが何も言わなければ「大丈夫なんだな」と思ってしまいます。
行動にあらわれてから、「よくわからないけれど、それくらい辛かったのかな」と傷の深さを想像することしかできません。
きっとこの先も我が子が辛い思いをしていても、それに気付かないかもしれません。心配ばかりが空回りして、的外れな配慮しかできないかもしれません。
でも、こればっかりは仕方ないと思っています。わからないものは、わからない。
説明されても、想像することしかできない。説明されなければ気付けない。
至らないところは、我が子に「これが我が母だから仕方ない」と半分は諦めてほしい。ただ、私は変わらない愛情を約束することしかできません。
我が子のカミングアウトを二つ返事で受け入れたことは、誇ることでも恥ずべきことでもなくただの私の感じ方です。
いいとか悪いとかではなく、私がそう感じただけのこと。
とは言っても、複雑な気持ちは多少ある。こんな親でもね。
我が子が「LGBTであること」には、なんの嫌悪感も戸惑いもありませんでした。
ただ、苦悩がないかといえばそうではありません。
先ほど説明した心配の他にも、世間一般な親としての娘に持つ楽しみが私にもありました。
だからどうってわけでもないですが、なくなるのは軽く心をえぐられるくらい寂しいものです。
- 晴れ着を着せる楽しみ(卒業式や成人式、結婚式など)
- 女子会をする楽しみ(娘の彼の話でワイワイ盛り上がったり、とにかく女子同士でやってることを一緒にしたかった)
- 一緒に温泉めぐりしたかった
- 孫の顔を見られない可能性が高くなった
単純に親のエゴと言ってしまえばそれまでです。「LGBTQだから」という理由だけで、この楽しみが否定されたわけではないです。
女性として生きていく人生だったとしても、晴れ着を着たがらない人・温泉が嫌いな人、様々な事情から子どもを持たない人もいるでしょう。
ですから、苦悩というほどのものではありません。
ただ、いろいろな楽しみや妄想の可能性を一度に「あなたの人生にはその選択肢はないよ」と言われたようでちょっと寂しかったです。
ちょっと寂しかった、なんていうのは実はかなりの強がりです。
苦悩というほどのものではない、どの口がいうんだか。
実際には、口では言い表せないような、なんとも言えない重苦しい感情もあります。
「でも、別に誰も悪くない。この感情は自分で向き合っていけばいい。」そう思っています。
カミングアウトはゴールではない
カミングアウトはゴールではありません。たくさんある中のひとつのスタートに過ぎません。
我が家の場合も、カミングアウトで何かが解決したわけではありません。本人が今後その件に関してどうしていきたいのか、私たち大人はどうサポートできるかの協力体制をつくるきっかけです。
家庭以外にも、本人をとりまく様々なコミュニティがあります。家庭はその始まりのコミュニティにすぎません。
ここを拠り所に、その他のコミュニティでの困りごとや不安を解決に向けて動くこともあれば、ただの慰めの場になることもあります。
学校、部活、SMS。進級・進学とともに本人をとりまく環境はどんどん変化していき、問題が解決することもあれば新たに発生することもあるでしょう。その繰り返しです。
環境が変われば、一からまわりとの関係性を調整していく必要もでてきます。
親に早めにカミングアウトする利点は、学生であるからこそ大きいと思います。
親の協力が得られれば、周りの大人も大きく動く可能性が広がります。
例えば制服や、設備の問題。親の協力があれば、学校や市町村と連携して子ども1人で動くよりも大きな結果や早い動きが望みやすいです。
進路についても同じことが言えると思います。
カミングアウトが絶対に必要なものかどうかはわかりませんが、そうすることで安心して納得して生活できるとのなら、やった方がいいと思います。
カミングアウトを悩むあなたへ
今、カミングアウトを悩むあなたへ
「悩むくらいであれば、やってみたらいい」
という言葉を贈ります。
無責任です。でも、やってみなくちゃ始まりません。
悩む、ということはきっとあなたはカミングアウトしたいんです。無理にする必要はないけれど、悩んで立ち止まっているくらいなら、やってみたらいい。
思い切って、言ってみればいい。
世の中のまともな親御さんたちは、私のように「へぇーそうなんだね」で終わらないことが多いかもしれません。
怒り、悲しみ、苛立ち、苦しみを投げつけてくるかもしれないし、関係性が壊れてしまうこともあるかもしれません。
でも、親のことを信じてほしいと思います。どんな反応も、子どもを愛おしいと思っているからこそです。一時的にぎくしゃくしてしまっても、親も必死でなんとかしようと思うはずです。
ただ、それには時間が必要。時間が必要だからこそ、悩むくらいなら早めに言った方がいいと思います。意外に私のように「ふーん、そうなんだね」てすんなり受け入れられるのんきな親御さんもいるかもしれません。
大切なことはただ一つ。
カミングアウトは、あなたが味方にしたい人にすればいいと思います。
家族は子どもにとって人生で初めて出会う味方。
あなたがそう思える相手であれば、向こうもあなたの味方になりたいと思っているはずです。
カミングアウトした我が子に私が親としてしたい3つのこと
学校や市町と連携して本人を見守っていくこと
これは親という立場だからこそ、やってあげられることだと思っています。
学校というコミュニティーの中で、本人がどう自分を表現して生活していきたいのかを十分に確認しながら、ゆっくりですがいろいろ進めています。
将来の受け皿を作りたい
我が子はかなり意志が強いので、私がそんなことをしなくても自分で人生を決めて生きていくと思います。たぶん。
でも、親としては不安で仕方ありません。何か困った時に、受け皿を作っておきたい。
そんなふうに考えるようになりました。
これもひとつのきっかけとなり、会社員の私がブログを始めるにいたった経緯があります。
絵を描くのが好きで上手な我が子となにか組み合わせていけたらな、なんて妄想もしています。
まだ始めて間も無く、何も形になっていませんが、我が子が成長し社会にでるようになるタイミングまでに、必要な時に少しでも力になれるように長期的にやっていこうと思っています。
改めて名前を贈りたい
LGBTQの方とお話しした時に、とても印象に残った話があります。その方は元男性、女性と自認していて、服装も女性用のものを身につけています。
将来的に外科手術も考えているそうで、その際には戸籍の性別も名前も変更するつもりでいるとのことでした。その時のために、名前もすでに決めてあるそうです。
変更後の女性名についてお話しする時のその方は、とっても嬉しそうでした。が、次の瞬間、目を伏せて表情が曇りました。
だけどね、親には言っていないの。親が付けてくれた名前を変えるなんて申し訳なくて・・・
あんなにキラキラしていた表情が急に曇り、私は切なくなりました。確かに親の立場から言うと、せっかく付けた名前を変えられてしまうのは複雑です。
でも、自分がつけた名前のせいで子供がこんなに辛い思いをする方がもっと悲しい。
名前って、親からの最初のプレゼントって言いますよね。
プレゼントって、相手を喜ばせるためのものです。
相手の幸せを願って贈るものです。
そのまま使ってもらってもらえれば、贈った側としてこんなに嬉しいことはないです。
しかし、そうでないのなら気持ちだけありがたく受け取ってあげればいいと思います。
不要なら使わなくていいんです。
名前はこの世に生を受けたその日から必要なものだから、親が気持ちをこめて贈るものです。
成人した今、その名前で悲しい思いをしてしまうのならどんどん変えてもらって構わないです。
とはいえ、これも私の考え方。そして、私も親として相当の寂しさを感じます。
お腹の中にいる10ヶ月。
つわりで辛い時もお腹に語りかけながら、産まれてくる子にできるだけいい名前をつけてあげたい、とノートにびっしり名前の候補を書きつけ、字画や音・苗字との組み合わせを研究しました。
楽しかった幸せな思い出です。
産まれてきてから今まで、何度その名前を呼んだことでしょう。我が子がその名前を変えてしまう、となったら言い表せないほどの深い悲しみを感じます。
でも。
別にその思い出がなくなるわけではありません。幸せを願って贈った名前が我が子を苦しめているのなら、名前なんてなんだって構いません。
そこで考えました。
もう一度、親として名前を贈り直してあげたらどうか?
親はもう一度名付けの喜びを感じることができるし、子は親への申し訳なさを感じることもない。
名前の第一音だけ変えなければ、普段読んでいる愛称(例えば まさこ→まさひこなら”まーちゃん”でいける)がそのまま使えます。
まだ実現はしていませんが、我が子にその考えを伝えてみました。
笑って「いいね、それ」と言ってくれました。
最後に
このブログを書き出した時、この話をここで書くつもりはありませんでした。
我が子のプライバシーに関わることだからです。恥じることではありませんが、配慮が必要な性質の話です。
でも、どうしても書きたくなってしまいました。
きっかけは「親にカミングアウトをしたくてもできずに悩んでいる子どもがいる」と何人かの人から聞いたことです。
私のブログなんて誰も読んでいる人はいないから、書いちゃってもいいか、という気持ちと。
もし悩んでいる人がいたら、その誰かに「きっと大丈夫だよ」って伝えたい、そう思って書きました。
私たちも時間の経過や環境の変化で、解決することもあれば新たに壁が出てくる場合もあります。
親族には伝えるのか?本人の兄弟には?
そもそも親自身にも理解が足りなかったり、複雑な気持ちをどうにもできなくなる時もあります。
我が子をもう、娘とはいいません。でも息子といえるほどには、私の気持ちは追いついていません。
いろいろね、大変なこともたくさん。だからこそ、カミングアウトしたいならするべきです。
そして、味方を作ってください。
カミングアウトしなくたって、味方になってくれる人はたくさんいます。でも、カミングアウトしないと苦しいと感じるのであれば、したらいい。
受け入れてくれない人もいます。でも、受け入れてくれる人も絶対にいます。
そして、あなたにとって大切な人であるならば、いつかは必ず受け入れてもらえるはずです。
きっと、大丈夫です。